なぜアメリカに来たの?
よく皆さんに、『あなたはあの東銀を辞めてまで、どうしてアメリカに来たの?』とよく聞かれます。
私は、長くなるので端的に『私のわがままです。』と答えることにしています。「ふーん」といぶかしげな反応を示す人がいると、すぐさま『わがままを貫くには、確たる信念と多大の努力が必要です。』とも自分に言い聞かせるように言います。殆どの人がわかったような、わからないようなキョトンとした顔になります。
1990年春、家人と次男を伴い、東銀時代に5年間駐在した仲間の多いオレゴン州ポートランドに降り立ちました。
そして約20年たち、皆さんに冒頭の質問をよく訊かれるので、ゆっくりと自分の半生を振り返ってみました。
私は長く東京銀行に勤務していました。1983年3月、東京銀行ポートランド支店に派遣されました。赴任のため東京の自宅を出るとき、神経性の下痢を起こし、銀行から迎えにきたハイヤーを30分あまりも玄関前に待たせた記憶があります。さすがの楽天的な私も、気に入った自宅とも別れ、長くなるかもしれない海外勤務に少し緊張していたのでしょうか。
当時は直行便などなく、サンフランシスコ経由でしたが、ポートランド空港に着陸する時、低く垂れ込めた灰色の空、淀んでいるような空気、内心『活気のない嫌なところに来たもんだ…』と思いました。
そして1988年4月に帰任する5年あまりの間で、派遣駐在員だったゆえ、ということもありましょうが、米国のビジネス、生活、社会、人間関係に新鮮な価値観を覚えたのでした。
生活面では:
- それぞれの人間、家庭を尊重した親切で、干渉しない、大らかな近隣関係;
- 道でもビルでも他人と譲り合う素直な心、目が合うと微笑み合う優しさ;
- 政府への依存心が小さい社会;
- すべてに余裕のある豊かな生活環境;
- そしてオレゴン州は全米の縮図、海あり、山あり、湖あり、川あり、緑あり、青空あり、その雄大な大自然に囲まれている;
- 比較的経済的な居住性;
ビジネス面では:
- 如何なる立場、情況でも、一身独立を尊重する対等の関係;
- 外部の絡み合い、しがらみがなく、あまり禍根を残さない;
- 交渉は対等で、相手の話しを良く聞き、理解し、たとえ実らずとも次のチャンスがまたある;
- 交渉相手が知識と権限がある程度あるため、話しが進み、結論が早い;
- 差別や理不尽、不当なことは、労使ともに法で規制され、合理的;
家族も含め、私たちはアメリカの生活環境、ビジネス環境、そして合理的社会環境に次第に納得性と愛着を抱くようになりました。
また私は、当地で唯一の邦銀である東京銀行の第一線におり、州政府、地方政府からも頼られ、日系コミュニティーの中核におり、日系商社とメーカーの間の潤滑油のような役割もしていたため、日系とくれば、東銀、東銀とくれば船木だったのです。いわば舞台でスポットライトを浴びている主役のような存在でした。舞台に立つ芸能人は、一度スポットライトを浴びるとその華やかさが忘れられないと申しますが、まさにそれに似たポートランドに対する愛着と自負があったのかもしれません。(笑)
日本の権力志向の官僚社会、企業の派閥社会、視野の狭い縦割りの組織、コネとしがらみ、そこを何とかの頼み社会にうんざりしていたことも、拍車をかけたのかもしれません。また、とにかく人が多い、どこに行っても混雑とラッシュ、人の迷惑を顧みず、駅など公共の場や道路で堂々と煙草を吸う男たち、深夜の駅のそれぞれにくず箱に顔を突っ込んで嘔吐している酔っぱらいに甘い社会、そんな嫌な側面を帰国後目の当たりにし、見切りを付け、断を下したのかもしれません。私はわがままなのです。
一方で東銀時代は、融資畑一本で歩みましたが、私は若い頃から人事自己申告で、「国際財務開発」即ち日本企業の海外進出や海外での経営戦略問題を支援する本部への異動を一貫して希望していました。しかし、融資先に大変人気(?)があった私は、結局企業を担当する融資畑一筋に歩んで来たのです。オレゴンに来て、そして独立して、日本からの進出企業を支援する、まさにその国際財務開発業務に携わるようになりました。皮肉な結果です。さらにアーサーアンダーセンに入り、それがより専門化しましたのは、私には大変ラッキーなことでした。
今振り返れば、家族には内緒ですが、よくもまあ東銀を辞めてアメリカに来たものだ、と己の過信にゾーッとします。今、クライアントさんがついて来てくださるのは、やはりアンダーセン時代に培われた専門的戦略技術的、広い経営知識の賜物と思います。アンダーセンに入っていなかったなら…と思うと、再びゾーッとします。
わがままを貫くには、信念と努力が必要、というのは、この『ゾーッ』とした反省から来るものでしょう。